お墓の裏話

葬式仏教ってなに?形骸化した葬儀と宗教の本来の役割とは

葬式仏教という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
普段の生活において信仰を持っている訳でもないのに、葬儀の時だけ形式的に執り行われる形骸化した仏教の儀式として揶揄される言葉です。

現代の日本においては多くの方が仕事の為に都市部に移住をしたり、核家族化により祖父母とは別に暮らすことが多くなり、
日常生活の中にお墓や仏壇などに触れる機会も減り、仏教の存在感は小さくなっているのではないでしょうか。

どうして葬儀をやるのか

そもそもなぜ葬儀をやるのでしょうか。
大切な方が亡くなったのだから出来るだけのことをしてあげたいという気持ちもあると思います。
皆やっているからやる。やらないと世間体が悪いなど、慣習的な理由でやっている人がほとんどなのではないでしょうか。

故人の供養の為であるのならば、喪主になるまで宗派すら知らなかった宗派で意味もなにもわからないお経をあげてもらう必要があるのでしょうか。
最近ではお坊さんを呼ばずに葬儀を行ったり、故人の人柄がわかるような手の込んだ葬儀を行う葬儀社も出てきています。
また、逆に葬儀自体を行わない直葬も増えてきています。

前もって十分な準備ができない

人の死はタイミングを選べません。結婚式等は半年以上前から日取りや会場を決めて演出等十分な準備をすることができますが、
葬儀は多くの場合一週間以内に執り行われます。
十分な時間もないうえに手続きも多く発生する為、故人の人間性葬儀社と最低限の打ち合わせをして任せていくのが一般的になるのは仕方ないことかもしれません。
そういった理由から、オリジナリティではなく儀式として定型的な内容で進んでいくのではないかと思います。

仏教はなぜ形骸化したのか

お寺の必要性がなくなってきたから

江戸時代には仏教と国民生活は切っても切れない関係にありました。
1つ目は江戸幕府による宗教政策があったことです。

キリスト教を排除するする為に、国民はお寺の檀家となることでキリスト教の信者ではないと証明をしてもらう寺請制度というものがありました。
戸籍制度のようなもので、お寺との関係がないと生きていけない時代がありました。
さらに、寺子屋の言葉が残っているように、教育の役割も担っており、非常に大きな役割を持っていました。
しかし、明治維新になるとともに寺請制度は廃止されるとともに、お寺との関係性が薄れてきました。

お寺と強制的に檀家の関係性を結はまなくてよくなった時に、十分な価値を伝えらなかったのが現代のお寺の衰退の理由なのかもしれませんね。

宗教の本来の役割ってなに?

宗教全般に言えることですが、キリスト教で言うところの、信じるものは救われる。
ここに、尽きると思います。

歴史上では、戦乱や疫病、ききんなどで命を落とすことが普通にありました。
目に見えず、理由もわからず命の危機が目の前にあり、命を落とした後どうなるのかもわからない。
想像を絶する恐怖であったと思います。

解決できない恐怖から逃がれるために、宗教に救いを求める。
これこそが宗教の役割であると思います。

科学の発展による理論崩壊

地球は平面だと信じられていたような時代であれば、天に召された後には天に昇り極楽浄土へ行けるという話を純粋に信じることが出来たでしょう。
しかし、現在は地球は球体で、大気圏の外には宇宙が広がり、地球の外へロケットで行ける時代になりました。
極楽浄土はどこにあるのでしょうか。
霊的な体験をされている方もいるかもしれませんが、大多数の一般人にはおとぎ話のような世界感になってしまっているのではないでしょうか。

もっと役割はあったはず

医療技術の進歩などにより人は簡単に死ななくなりました。
健康な時は死を意識しない。それだけであり現在でも変わらず死んだらどうなるのかは誰にもわかりません。
そういった不安から救いを求める場所がお寺であるべきなのではなかと思います。
民衆を積極的に救えなかった結果、宗教としての価値を提供出来ずに、お坊さんは葬儀やお墓参りの時だけに関わる存在になってしまったのだと思います。

まとめ

葬式仏教と揶揄されようが、長きにわたり慣習として葬儀が行われ続けてきたのは事実です。
大切な方の死に直面した遺族を精神的に支え続ける重要な役割であるとも思います。
ただ、このまま何もしなければさらなる寺離れや衰退は避けられないでしょう。

ここからは個人的な願望ですが、
命の危険にさらされることはほとんどない、安全な国ではありますが、少子高齢化や年金問題など明るい未来が見通せない日本において、精神的な救いになるような存在でいてほしいなと思っています。

葬式仏教などと揶揄されぬよう、盛り上げていただきたいと切に願っています。

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